建築学科攻略サイト

凡人が建築学科をスムーズにクリアしようと試みるために作ったサイトです。「攻略したぞ!」という過去形ではなく、「攻略できるかな?」というニュアンスです。
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よろしくお願いいたします。
 

カテゴリー:学科の生活


2015年02月19日

就職活動や進路選択に”失敗”があるとしたら・・・

こんにちは。


毎度のことながら、建築関係の人たちの間では卒業設計の話題が増え、その後すごいスピードで就職の話に切り替わるというルーティーン2015年版の真っ最中ですね。


課題・合宿・イベント・就活・卒業設計・就職という6つの歯が付いた歯車があって、毎年それがぐるぐる回っているような、そんなイメージです。


で、今は興味・話題の歯車が卒業設計の段階まで来ていて、それがゆっくりと就職とか進路選択にシフトしていくような時期でしょうか。


まぁそんな時期ですので、僕も就職とか進路関係の記事でも書こうかと思ったのですが、よくよく考えてみると、学生の頃に就職の勉強会をしたこととか、自分の進路選択についてとか、僕にダイレクトに関係があったものについては、ある程度過去にこのブログのどこかで書いているんですね。


それなので、今回はもう少しキャッチーな感じで、


就活や将来の選択の”失敗”があるとしたら、一体どんなものなのか?


というものを、僕なりに色んな例を出しながら書いてみようかと思います。


僕が学生の頃(今もそうなのかな?)は、大学を卒業して大手に入社した人が正・それ以外は反(もしくは、就職できた人が正、出来なかった人が反)という、分かりやすい大衆の価値観のようなものがあったかと思います。


そうでない考え方の人もいますが、全体的なバランスとしては、こういう価値観が占めている割合は多かったように思います。


ただ、この2つの選択肢の片一方が正解、もう一方が失敗というのは賛成できなくて、僕の感覚では


”この二つの選択肢の先には、ただ全然違った世界が広がっている”


というイメージのほうが強かったです。
※他にも沢山の選択肢があるのですが、分かりやすいのでこの例で書きます。


学生時代、僕は社会人では無かったですし、オープンデスクもインターンシップも行っていないので、どちらの世界も経験したことが無く、この仮説はあくまでいろいろな観察の結果に従った予想でしかなかったわけですが、社会人になって、他業種や他人とのかかわりが増えて、やっぱり違う世界なんだなぁということが少しずつ明確になってきました。


じゃあ、それら二つの進路選択が別物で、どちらに行こうが成功でも失敗でもないのなら、いったい何が”失敗”になるのでしょうか・・・。


突然ですが、僕には結婚する予定の人が居て、その人も最近大学で進路選択をして、今普通に働いています。


彼女は大学を卒業後、世間一般で言う「大手の一流企業」と呼ばれるところに入社しています。で、現在もそこで一応正社員として働いているわけです。


一方、僕は何度か記事にも書いたと思うのですが、大学院を途中で辞めて、新卒の採用試験もやってなかった、誰も名前も知らないような創業間もない小さな会社に入社したのです。


誰でも名前を知っている大きな会社に入社した彼女と、創業して間もない小会社に入社した僕は、正反対の選択をしているわけです。


で、そんな彼女と1週間に何回かは会話する機会があります。


ところがどっこい、自分の感覚で会話をすると、会話が成立しないのです。それは彼女も理解していると思うのですが、会話をするたび、僕と彼女は全然違う生き物なんだなぁと実感します。


2人が違う選択をしたから違う生き物になったのか、もともと2人が全く違う生き物だから違う選択になったのか、定かではないですが、とにかく現状では、普段の生活でもそうですし、働き方や働く環境、社会的な立ち位置等、まるっきり違います。

※仲が悪いわけでは無いですよ。笑。僕は自分と価値観が完璧に一致する人なんてこの世にいないと思っているので、ストレスでも何でもないですし、彼女も彼女でアホでは無いので、それくらいは理解できていると思うので・・・。


僕はこういうことを、学生の頃にある程度分かっていたので、進路選択の際に自分に合ったほうを選択しましたし、彼女も彼女でそういう選択をしているからこそ、お互い不満も無く普通に生活しているのですが、これが分からないまま大学の方針とか、多数決とかで選択してしまうと結構ストレスになります。


それなので、社会人になってからストレスと不平不満にまみれて無駄なエネルギーを使わなくても良いように、これから2人の実際の違いを羅列していきますので、選択の際の参考にしていただければと思います。


まず、彼女にはそこそこ(同年代の女性にしては)の固定給があります。たとえば、朝の9時〜夕方の5時まで働けば、成果に関係なく一定の給料が出ます。で、定時を過ぎると、それ以降の労働に対して“残業代”が支給されます。


1週間に2回休みがあり、休日に出勤する場合は振替で休日が用意されます。残業も一定時間までと定められていて、その時間を超えると会社の電気が使えなくなり、強制的に仕事を中断させられます。抜け道はありますが、会社の規定としては、働きたくてもこれ以上仕事をしてはいけないという、僕にとっては謎の時間が出てきます。


実力や勤務態度に関係なく、残業代と出勤日数・会社全体の景気で給料が決まり、年々微妙に上がっていき、資格や役職に応じて+αで給料が上がります。縛りが多くて結構ややこしいです。
※ここで言う勤務態度とは、出勤日数と残業時間が評価の指標です。


僕の場合は、個人で上げた成果によって給料が変わります。どれだけ出勤していようが、何日休もうが、どれだけ早く帰ろうが、どれだけ残業しようが、そこは評価に含まれません。嫌らしい言い方をすると、会社でいくら稼いだかで給料が決まります。


どれだけ業界の経験があっても、昔どれだけ成果を上げていても、現在進行形でしか評価されません。非常にシンプルです。


彼女はプライベートはプライベート・仕事は仕事という考え方ですが、僕はごっちゃになっています。


僕は仕事中も私用をしますし、休日も仕事をしたりします。ただ、僕は総じて、仕事をしている感覚は少ないです。だから結果ごっちゃになってるのだと思います。


なので、僕は私用のスケジュールに合わせて仕事のスケジュールを調整しますが、彼女の中では仕事に対して休日がある感覚なので、仕事のスケジュールに合わせて私用のスケジュールを調整しています。


仕事の内容も違います。


僕の場合は明確に仕事が決まっていないので、自分の業種以外の知識も必要になりますし、必要であれば全く関係のない仕事もやらなければなりません。


たまに友人に冗談で


「掃除して日当5万〜10万くらいもらってるんだよ」


とか言ったりするのですが、あながちウソでも無いんです。


逆に、彼女の場合は、明確に決まった仕事があって、それ以外の仕事は違う担当部署に振るようになります。ほとんどの場合、責任の所在を明確にさせるためにも、自分の部署以外のところを自分ではやりません。身の回りの掃除くらいはするかもしれませんが、事務所全体はおそらく清掃業者が入っていると思います。


「社会的信用」というとかなり抽象的ですが、そういうものはやはり有名企業に属している彼女のほうが圧倒的に上です。


例えばマンションなどを買うときに銀行からお金を借りようと思うと、彼女の方が圧倒的に有利です。僕は今のところ彼女の倍以上収入がありますが、それでも彼女の方が簡単に、僕よりも沢山のお金を借りられます。


人によって生活費はまちまちかと思いますが、一人暮らしの20代(僕の場合)だと、月13万円(家賃3.5万円・光熱費1.5万円・1日の食費や雑費2000円少し)ほどあれば生活できます。つまり、年間150万円あれば生活できるわけです。


仮に、東京の郊外あたりのワンルームで家賃が7万円でも、月16万円なので、普通の20代独身なら、200万円ほどあれば1年間生活できるかと思います。


で、彼女の場合は生活費の200万円稼ごうと思うと、月収30万円で5か月とボーナス50万円とかで、半年くらい継続して働く必要があります。


僕の場合は、月収200万円の月が1回で、ほかの11か月は何もしなくても1年間普通に生きられます。


つまり、収入面の自由度は、僕の方が高くなります。彼女の場合時間が評価の指標になるので、「年間200万円で生活できるんだから、今年は年収200万円でいいや」と思っても、12か月働かなければいけません。そうなると彼女の場合、嫌でも400万円くらいの収入になってしまいます。


僕の場合は時間や勤務日数は給料と関係ないので「今年はいろいろ他のことをやりたいから年間200万円あればいいや」と思えば、月(厳密に言うと1か月に数日働いて)200万円稼ぐか、同じように月100万円で年間2か月働けば良いのです。


ということは、自給自足で無い社会に囲まれて生きている以上、時間の感覚も違います。


彼女がたまに「資格取りたいけど時間がない」とか、「OOの勉強をしたいけど時間がない」とか言いだすと、ついつい


「勉強したいなら半年くらい仕事を適度にやって、生活費だけ稼いであとは時間作って勉強したら?」


とか言いたくなるんですけど、先に述べたように根本的なシステムに違いがあるので、言っても実感はしてもらえないです。言ったところで、


「それが出来たら苦労しないよ」


みたいな話になっちゃうんですね。


僕の感覚では


「いや、普通に出来るだろ・・・」


と思ってしまうのですが、彼女が生き方や価値観をがらっと変えない限りそうはいかないですし、変える権利や資格等、僕には無いので、「とりあえず頑張れー!」と、暖かく見守っておくしか無いのです。


逆に彼女の感覚で、僕の表面だけを見れば、時間の縛りも無い、会社の人にあれこれ言われる事もない、休みも自由で1か月で200万くらい稼げると来たら、


「良いねそんなに自由に出来て、短時間で沢山お金もらえて」


と思うかもしれませんが、残念ながら結果が出ないと給料が無いわけです。


つまり、実力主義と言いますか、残業とか出勤日数とかいう感覚を持っている人には想像がつかないくらい、こういうスタイルは殺伐としていますし、365日24時間頭をフルに使わなければいけないですから、かなり気疲れするのは事実です。


映画やアミューズメントパークを純粋に楽しむことなんて、到底出来ないですよ。


何かに追われているとか、いやいややっているわけでは無いですけど、職業病と言いますか、どうしても映画のセリフの言い回しとか、広告のキャッチコピーとか、そういうものに神経が集中しちゃって、ある意味では楽しいのですが、おそらく純粋にストーリーを楽しもうとか、純粋にサービスを受けたい人とは全く違う感覚になってしまいます。


こういうのも、合っている人には合っていると思いますが、普段のストレスを遊園地で解消しようとか、映画のストーリーで涙流そうとか、そういうことはなかなか出来ないわけです。


彼女も彼女の価値観で、僕の仕事や生活を「良い・悪い」と評価出来ないですし、そのことを理解しているので、何も言ってきません。


つまり、ほんとに良い悪いとか正解・不正解では無くて、


“違う生き物”


なのです。


どっちが良いかでは無くて、どっちが自分に合っているかで判断しないと、ものすごいストレスを抱えることになると思います。


僕はすべて自己責任・年齢・経験無制限の環境で実力を試すような場所が、自分に合っていると判断しました。それなので、ひとまず最初の選択を終えた今は、特にストレスも無く生きているわけです。で、次は会社でも作ろうかなと思っているのです。


逆に、彼女のようにある程度の整った環境で仕事をして、しっかりと決まった休日をとって、決まった時間にある程度決まった内容の仕事をしているほうがストレスが少ないという人もいます。彼女も彼女で休日にいろいろやっているみたいですので、次にどうするか考えてるのではないでしょうか。


これはもう、単純に好みの問題なんです。


当たり前すぎて言う価値もないかもしれませんが、客観的にこれが正解ってのは全くなくて、どこに行きたいか自分で決めたら良いと思うんですね。


ただ、自分で選択しておきながら、最終的に合ってない所に行って猛烈にストレスを感じて、


「思ってたのと違う!」


とか


「ブラック企業だ!」


とか文句言いながら生きている人が多すぎて、そういうのは意味がわからないなぁと思います。僕には到底理解できません。


結局は現実を把握しきれず、自分勝手に良いように想像した結果、ふたを開けてみたら現実がただ違っていただけですから、それに怒るというのは、自分に対して自分で勝手に怒っているだけのアホです。


文句を言う資格も無いし、嫌なら会社に環境を変えろと望むのではなく、自分の考えを改めたほうが早いです。


進路選択や生活のスタイルに成功や失敗があるとしたら、こういうのが


”失敗”


だと思います。


アトリエに行こうが、自営業をしようが、サラリーマンをやろうがコミッションで働こうが、それらはただの選択肢の一つです。


勿論、適当に過ごしていれば選択肢すら与えられずにただ落ちるところまで落ちるだけなので、最低限の努力は必要ですが、普通にやることを普通にやっていれば、大手の企業に入るか、自営業をするか、小さな会社に入るか、それくらいは選べるはずです。


ただ、そんな恵まれ放題な環境にいながら


「他にやりたいことがあるのに、今の仕事が忙しくて何も出来ない!」


とか、


「アトリエで働いているけど、毎日終電まで働いて月10万円じゃ生活出来ない!」


とか、そんなことを言う資格なんて無いんですよね。選ばされたわけでは無く、自分で選んでいるわけですから・・・。


仮に選ばされた感覚があるなら、周りのことを気にしすぎです。建築学科を出たから、建築系に就職しなきゃいけないわけでも無いですし、設計士が花形(そうなの?)だからと言って、好きでもないのに設計士を目指す必要もありません。


そもそも大手を希望する意味も、僕の感覚ではあまり分からないのですが、大手に入れないことが失敗でもなんでも無いです。


親や先生のアドバイスというのも、大切な瞬間はありますし、社会の中で生きていく以上は、周りの評価も大切です。


けど、明らかに自分に合っていない選択をすると、後々必ずしわ寄せが来ます。


最初は些細なしわなので、なんとなくスルーできますが、そのしわがどんどん大きくなっていくと、後からそれを伸ばすために、また莫大な時間や労力を使わなくてはいけません。


だから、


「小学生のわがまま」


を言うような無駄な時間を過ごしたり、自分を追い詰めないためにも、是非自分の選択肢の先にある現実をしっかりと見極めて、もう少し欲を言えば、今の社会の状況からこの先どうなるかをしっかりと見極めて、将来の第一歩を選択してみてはいかがですか?と思います。


まぁ、今回は僕がこの場につらつらと書きましたが、こういうのって普通にリクルートとかの大衆メディアにもシレっと書いてあるんですよね。


ただ、なんとなく有名企業に入ってバリバリやってる学生をなんとなく幸せっぽく取り上げたりしているので気が付きにくいだけで、シレっとこういうことを書くのが、大衆向け雑誌の憎いところです。笑


とりあえず、学生のうちの進路選択なんてのは今後の選択肢のスタートかそれ以下の物ですから、最低限のことは考えなきゃいけないですけど、あまりに重くプレッシャーを感じすぎずにやってみるのも良いかと思います。


就職活動や進路選択の失敗談というと、どうも


「希望先に内定をもらえなかったワケとは!?」

とか

「履歴書で書いたことを答えられなかった!」

とか

「希望先が実はブラック企業だった!?」

とか・・・。


色々書いてあるんですけど、それは別に失敗でもなんでも無くね?と思うので、こういう記事を書いてみました。


長くなりましたが、気軽すぎない程度に、気軽に考える材料にしていただければ有難いです。


それでは(´・ω・`)


posted by makku at 21:11| Comment(0) | 学科の生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年04月13日

選択・判断の材料は、今の自分が思ってるよりも少ない件

「最近、仕事どう?」


「最初はいろいろ覚えなきゃいけないし、勉強もしなきゃいけなかったけど、慣れたらあとは同じことやってりゃ、残業代も合わせて大体月30〜40万は貰えるんだ〜。寝不足にはなるけど、かなり待遇は良いと思うよ」


「へぇ〜!めっちゃいいじゃん。さすが大手だな!」



と、まぁこれはとある大きな会社に努めている友人が、会話の中で言ってたことです。


良し悪しは、人それぞれだと思いますが、僕もこういう環境にあこがれた瞬間が、人生の中で一度くらいはあったかと思います。


このような、いわゆる「大手」に入ることで、合コンに行けば女の子(あるいは男の子)が寄ってきて、結婚相手にも生活にも困らなくて、周りの人からは


「すごいねぇ〜、頑張ったねぇ〜」


と、褒めてもらえる。


それこそ、今から思えば”アルマー○”や”○ーバリー”といった、(好きな方いたらごめんなさい。別に僕も身に着けてる時がありますし、嫌いでは無いので・・・。否定してるという受け取り方は辞めてくださいね。笑)物事態はそんなでもないけど、分かりやすいロゴで無条件に「良い」と思ってもらいやすいブランドに対する憧れのような、


”虚像へのあこがれ”


を抱いていたのかと思います。


もちろん、ブランドというものはデザイナーや企業が作り上げた世界観が売りなので、その世界観事態が「ある種の虚像」であることが悪いことだとは思いません。


けど、その対象が自分の人生となると、


「あ〜なんか、思い切ってアルマー○を買ってみたけど、思ってたのと違ってたな〜」


と、痛い出費ながらも笑ってやり過ごせる状態とは、少しばかりわけが違うように僕は思います。


僕みたいに”ゆとり全盛期の人間”ですら、


「ここで変な選択をすると、僕は一生後悔するかもねー。」


と、意外と真剣に「自分の選択」について、色々と考えるようになりました。


僕はそれまでも、あまり世間一般の風潮を気にするような性格では無かったのですが、


「無意識にやっている自分の選択」


が、いったいどういうものなのかを、しっかりと考えた時期があります。たぶん22歳くらいの時です。


おそらく、大学時代も大なり小なり触れてはいるのだけど、なんだか遠いと思っていた「社会」というものが、気づいたときには急に目の前に来てしまっていて、それまでも選択の材料を探す暇はあったのだろうけど、どこかでそれを遠い存在として避けていたから、突然目の前に現れた「選択」という大きな壁に対して、


「おっと、これはまずいな・・・」


というように、驚いてしまったのが、真剣に考えるきっかけになったのでしょう。


自分が何かを選択をするうえで、「選択の基準」を見つけることは、とーても難しいことです。


だって、基準さえ分かれば、選択なんて何のストレスもなく、特に悩むことも無いですから。


けど、僕たちは自分の選択の基準というものが分からないから(分からないというか、本当は周りにぼんやりと存在しているのだろうけど、何かに隠れて見えにくくなってるから)、いろいろな選択を強いられる前に、出来るだけ自分の”基準”を見えやすくしておく必要が、あるかと思います。


選択をする基準を見つけていない状態で選択を続けていくと、自分の選択はもはや「選択」ではなくて、何かに依存して、そっちへひょいと連れていかれたような感覚になります。


それは、どういう結果につながるかと言うと、選択という行為が、


「責任転嫁の材料を探す」


という行為になるような気がします。


自分の選択(厳密には自分の選択だと思ってる”何か”)で失敗をしようものなら


「だって就活マニュアルに書いてあったから・・・」
「偉い人がそう言ってたから・・・」
「みんなそうやってるから・・・」



というように、すっごい悲観的に「責任転嫁する対象」に、攻撃を始めてしまうようになります。


それなので今回は、自分の大事な人生を、そんなことに費やすための時間にしてしまう前に、一度


「自分の判断基準」


をしっかりと一緒に考えてみませんか?


という趣旨も含めて、僕が学生時代にやってみたことを色々と書いてみようかと思います。


自分の判断基準というものは、20数年という短い期間であろうとも、生きている以上、いろんな要素によって拘束されて、小さくなっていくように思います。


例えば、


僕が小さい頃、作文で書いてた「将来の夢」は、「ライオン」でした。


けど、今は人間である以上、直接的にライオンというネコ科の動物になることはできないと僕は知っています。


だから、無条件に僕の夢の選択肢の中から「ライオン」は除外されますし、おそらく、「将来の夢=ライオン」と、発想に結びつくこんな思考プロセスも破壊されているかと思います。


このように、人は合理的な頭を身に着けるような成長をするにしたがって、何故か自分で選択肢を狭めてしまい、結果ものすっごいストレスを無意識に感じながら、自分の想像の範疇でしか、物を考えなくなるように思います。


なので、僕はとりあえず自分の中にある小さなリミッターを外すための小さい行動を、いくつかやってみることにしました。


その最初の行動なのですが、


とりあえず、気分が乗らない時は、たとえテストの日であっても大学へ行かない


と決めました。それで単位が取れないなら、すっぱり大学を辞めるということを前提にね。(中途半端にやっても意味がないと思ったので。笑)


この行動を始めて間もなく、テストの日の朝に突然「海行きたいな」と思い、そのまま海へドライブに行きました。


それまでのテストでも、僕は平均して90点を切ることはほぼ無かったので、おそらくこのテストも、受けてれば満点近く取れたと思います。


けど、一瞬でも僕は「テストに行きたくない」と思ったわけですから、とりあえずドライブに行きました。


はじめは、かなりドキドキしましたし、ドライブの途中何度か「引き返したほうが良いのか?」と思っていました。


けど、終わってみると何も起きないし、平然とまた次の日が来るわけです。


変わったことは、自分が取りたいとも思っていない単位が1個取れなかったということと、講義をやってる先生から病人扱いされただけです。


その時、


なんで今まで誰に命令されたわけでもなく学校に行って、いい成績取るために一生懸命頑張ってたのかな?


と、すっごい考えました。


良い待遇の、良い給料の、良い企業に入るため?
親や友人・周りの人に褒めてもらうため?
好きなことをするため?
・・・



と、ドライブ中も、海に到着しても、車から降りることなく、ひたすら「何やってたんだ?」と、考えてた覚えがあります。


けど、結局はわかんなかったんですね。今まで無条件に「良いこと」だと思ってやってたことの


”真の目的”


を、まる1日かけてすっごいゆっくり、真剣に考えて、結果分からなかったわけです。残念ながら・・・。笑


もし、その日僕がいつものように大学へ行って、いつものようにテストを受けて、学期末にいつものようにGPA満点の成績表を受け取っても、何のためにやってるのかが分からない状態でやってたので、いつまでたっても、僕は


「何だかわからない、曇った世界の中でもがきながら生きてたんだろうな〜」


と、その時初めて実感して、ものすごくゾっとしました。


こんな状態でいい成績を取っても、目的が無いから結局は緩い地盤の上に頑丈な建物を建てようとしているだけだったんです。


おそらく、客観的に見て、僕がとった行動は


「あ〜アホだな〜」


と思われるような行動だったと思います。実際、大学の友人からは


「どうしたん!?」


と、僕が病気にでもなったようなテンションで、ことごとく聞かれましたからね。


けど、僕はこの時の行動を「間違い」とする、なぜだか分かんないけど正しいとされてる価値観の少しだけ外に出られた気がして、テストで満点取る以上の結果が得られたと思います。


同時に、目の前にある壁だと思ってたものが、実際は壁ではなくて、背の高い壁に囲まれた迷路のようなものだということも分かりました。


僕は色んな方向に抜け道がある立体的な迷路を、内側からしか見れなかったから、目の前の迷路の壁を「不動の鉄壁」だと勘違いして、その壁の向こう側にある唯一無二の正解を目指して、壁を乗り越えるための努力をしていたような気がします。


けど、少し上から眺めればただの迷路ですから。今まで自分を拘束していたよくわからない価値観から少しだけ離れて、上から全体を見てみると、次に進む道なんて、右にも左にも、前にも後ろにも・・・死ぬほどたくさんあるってことが分かりました。


それこそ、建築模型の中にいる、人間の模型を上から眺めているような感覚です。


毎日毎日眺めている建築の平面模型。


その模型の中に、プライザー(建築模型の人形)がいるわけです。


そのプライザーがどう動くか、どう動けば綺麗な動線を持ったプランになるのか、どうアプローチして、どう出ていくのか、上から模型全体を眺めて、必死に考えるわけです。


この時、上から模型全体を眺めるから、僕にとってその模型はプランに見えるのだけど、たぶんプライザーから見れば、目の前にあるのはただの壁なのです。


僕は実生活の中でぶち当たる壁を、プライザーの視点でしか見れてなかったのだなぁ・・・


と、こんな感じの感覚でした。


それから、選択を迫られる瞬間が訪れた時に、しっかりと自分の進むべき方向を見極めて、自由な選択ができるように、


”自分がいる場所を俯瞰して見ようとする意識”


を持つようになりました。


そう考えるようになってから、


「最初はいろいろ覚えなきゃいけないし、勉強もしなきゃいけなかったけど、慣れたらあとは同じことやってりゃ、残業代も合わせて大体月30〜40万は貰えるんだ〜。寝不足にはなるけど、かなり待遇は良いと思うよ」


というような、言葉を聞いても、魅力を感じなくなったと思います。


自分の大事な時間を使って、頭をすっきりさせた状態で考える暇も与えられず、月30〜40万のために目の前にある作業だけを朝から晩までこなす。


という生活に、


少なくとも僕は「目的とか意味」を見いだせない人間なんだなぁ・・・。


と気づいたから。


もちろん、何も考えずに同じ作業を繰り返して月30〜40万円の給料をもらい、大手という肩書を手に入れる


ということに、素晴らしさを見いだせるのなら、それはそれで大変素晴らしいことだとも思うので、否定する気もありませんが。


僕が言いたいのは、決して大手に行くなということではなくて、


自分で自分を深く掘り下げて、しっかりと腑に落ちた状態で決断しているのか、判断しているのか?


というところですからね。


だから、なんとなくある世の中の風潮を、一瞬でも良いので取っ払って、自分の直観で、自分にすっごく正直に判断してみてください。


きっと、自分が目指すところ、本当の目標などが見えてきます。


けど、あんまり悩んじゃだめです。


悩むだけでは、進展もなければ衰退も無いので・・・。


それなら、自分の枠の範囲を超えるために、今の自分に出来る行動から始めてみると良いと思います。


さっきの話以外にも、僕がやった小さな行動はたくさんあります。


朝起きた瞬間の気分で、10時間くらいかけてすっごい遠くまでドライブしてみました。着いてみると日本国内です。別におおがかりなこともありません。1日くらい野宿しても大丈夫です。死ぬことはないですから。


僕の私服はほぼ毎日ユニクロのヒートテックとユニクロのジーパンとスリッパなのですが、一度高級ブランド店で「これとこれと・・・」と、思いつきで私服を一式買ったこともあります。それでも総額20数万くらいでした。別に死ぬような金額では無いし、次の日も普通に生きれるんです。


知人に、あるガチャポンの景品が欲しいと言われて、店員さんを呼んで、「ガチャポンの中身、とりあえず全部下さい。」と言ったこともあります。それでも、合計1万円くらいでした。家庭教師を3時間やれば入ってくる金額です。


クレジットの上限30万円をすべて使って買い物をした後、1か月後の引き落とし日までに30万円を回収する方法を考えたこともあります。学生で、バイトもしていなかったので、最初すっごい怖かったです。けど、いざ払えなくなったら、親に土下座すれば良いんです。結果、2〜3万ほど足りませんでしたが、普通に回収できましたからね。


挙句の果てには、行ってた学校をすんなり辞めました。人生で2度目の退学です。けど、死にませんでしたし、就活にも困りませんでした。今、別に貧乏ではないと思います。(贅沢をできるわけでもありませんが・・・。)


・・・・・・・・・


これらのことは、実際は誰にでもできるんですが、頭の中に変なリミッターがあってやらないことです。ほんとに、誰でもできるし、別に死ぬようなことでも無いのです。


けど、そもそも考える材料のほとんどが、変な枠に入ってるから何故か物理的に可能なことなのに、出来ない。


ずっと「自分以外の何かが指定した枠の中」で物を考えて、行動して、何かを探して・・・。


そんなのはストレスですよ。


もちろん、適度なストレスは刺激になるので、あったほうが良いのですが、ずっと何かモヤモヤした気持ちで生活してたら、


常に何かに追われて、忙しい気持ちになります。常に疲れます。思考も鈍ります。寝不足になります。そしてまた、「考える」という当たり前のことが出来なくなります。


良いことがあまり無いような気がしませんか?それなら、こんなしょうもないことで悩むよりも、もっと自由に発想して、少しづつ行動したほうが楽しくないですか?


世の中は思ってたより鮮やかです。


おそらく、今の僕が思ってるよりも、もっともっと、鮮やかで広いと思います。僕にもまだまだ知らないことはたくさんありますし、やったことないことも沢山ありますから・・・。


これから、進路選択とか、人生の選択とか、仕事の上での選択を迫られることがたくさんあるかと思いますが、本当に正直な選択をするときに、小さな頭で考えなくてもいいように、ぜひ一度色んなことを試してみて下さい。


何でも良いので、小さな行動を少しづつ変えていけば大丈夫です。


テスト受けるのが嫌なら、テスト受けなきゃ良いんですよ。
就活したくなければ、就活以外に何かやってみればいいんですよ。
TOEIC受けたくなければ、受けずに英語が使えるようになれば良いんです。
仕事したくなければ休めばいいんです。
建築好きじゃないなら、他のジャンルの本を読んでみれば良いんです。


・・・・・・


もちろん、今の状態で満足してて、何の悩みも無くて、不満もないなら、それはそれで、無理に変えないほうが良いと思いますけどね。


けど、何かモヤモヤがあるなら、案外やってみるとすっきりとするものです。


行動が変われば、目の前にあるものの見え方が変わります。


僕なんて頭の悪いほうなので、たった一冊自己啓発の本を読んだり、2〜3回建築家の講演会に行ったり、2週間ほどの短期間の海外旅行に行って


「世界が変わった!」


と豪語する建築学生と比べれば、僕の世界なんてほんの少しづつしか見え方は変わりませんでしたが、それでも、それに伴って判断の基準も、選択肢の多さも変わってきます。


そうなると、


建築模型を眺めてて、自分が設計してた部屋ばっかり見ていたのが、

建物全体を見るようになって、敷地を見るようになって・・・

敷地の周りを見るようになって、日本全体を見るようになって・・・

挙句の果てには建築というジャンルとは別にジャンルまで目が行って・・・。


というように、どんどん広く鮮やかに広がっていきます。


そうして広がった世界には、自分にとって必要な選択肢なんてのは山ほどあります。


それこそ、建築学科というくくりの中にいてはやろうとも思わないこと、行こうとも思わない場所に行くようになります。


もちろん、建築をやるために生まれてきたというくらい、建築が好きな人もいると思いますが、僕は建築学科にいて、建築は好きだったし勉強も人よりはやってたと思うけど、やっぱり他のことをやってたほうが楽しいんだろうな〜と思いましたから。


些細なことでも良いので、一度自分と向き合う時間を設けて、しっかりと自分と対話してみて下さい。


判断や選択は、それからでも遅くないですから。


posted by makku at 23:25| Comment(2) | 学科の生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年03月27日

「むっつりスケベ」の限界

どうもこんにちは。


現代はとっても便利な時代です。


テレビも家庭に一台、ネット環境も充実、一人一台はスマホを持っていて、情報も「もう、おなかいっぱい!」というくらい沢山あります。


で、こんな環境にあると、気づいたら一日を一人で、しかも自分に都合の良いものだけに囲まれて過ごせてるというような生活が出来てしまうわけです。


それこそ、


部屋の中で半日寝てて、たまにSNSでなかよしこよしのグループと会話すれば、一日が有意義に終わる。


こんな繰り返しで、毎日を過ごすことが出来てしまいます。


僕は、個人のパソコンを小学校の時から持っていたので、どちらかと言うと現代っ子なのだと思います。


だから、パソコンの便利さとか、パソコンやネットがあれば、小さな部屋の中で生活が完結してしまうということも、わりと小さな頃から実感や経験として知っています。


人と会えば、自由が利かずにストレスになることもありますが、一人でいると、がみがみ言われることもなく、今の自分と相性の悪い現実を直視する必要もなく、また、LINEのグループチャットでは、自分のことを認めてくれる、仲良しな人しかいなくて、非常に”楽”なわけです。


好きな人がいたら、昔は


好かれるか、嫌われるかの一か八か


で、話しかけたり、番号を聞いたりと、なんらかの方法で接触する必要があったけど、今やFacebook等のSNSがあれば、その人の一日の行動を見れるし、関わらなくても、”相手を知った気になる”ことが出来るのです。


まさに現実逃避し放題!


楽なほうへ、自分の都合の良いほうへ、そしてその先に謎の楽園を見出だして、さらに楽なほうへ。


自分の知りたいことだけを都合よく知って、自分の都合のいいように情報を解釈して、自分の好きなグループとだけ関わって、そうやって生きることが出来るのです。


まさに自分の都合の良いものだけを、こっそり自分の周りに集めることができる


むっつりスケベ人生。


便利ですよね。


けど、かなしきかなその楽園には、たーくさんの罠があるのだと思います。


そんなことは、聞けば当たり前のことなんですが、その甘い蜜の魅力というものは、それはそれは素晴らしくて、こんな当たり前のことを


「まぁ、今はいっか・・・!」


と錯覚させるくらい、強力な罠なのです。



僕がこれを痛感したのは、高校を辞めてニートをしていた時です。まぁ、ずっとアニメとか見てたり、時間があれば友達と遊んだり、適当にバイトしたりしてたんですね。


「なんとかなるやろ〜!」


と、言いながら。


今思えば、本当はなんとかならないのを自分でも知っているのに、無理やり「なんとかなるやろ〜」と自分に言い聞かせていたような気がしますが、その時はそう考える余裕もなく、ただただそう思い続けることで、現実を避けていたように思います。


もちろん、そのままでも最低限生きることは出来るたのでしょうが、


死ぬことが怖くて働いて、死にたくないから生きてるような・・・


そんな感覚だったと思います。


もちろん、当時実感はしていないんですけどね・・・。


ニートをしていても、しばらくは、仲の良かった友達とかと「なんとかなるよ〜」「大丈夫だよ〜」と言い合って、高校を辞めた人の本の「学歴なんて関係ない」といった類の、自分に都合のいい部分だけを表面的に読んで、安心して、いつか自分の環境も変わるんだろうな〜と、そんな生活だったのですが、何ヶ月たっても自分の周りの環境は変わらなかったんですね。


まぁ、何かを強制的に与えられてれば、それをこなさなきゃいけないので、少なからず何かしなきゃいけないんですけど、


なにぶん・・・


ニートってすっごい退屈なんですよ。笑


しかも、退屈なのに、他に何も与えられないんですよね。


宿題とか仕事とか、課題とか・・・。


けどそのくせ毎日暇だから、変化とか刺激を求めて、いろんなことをしてみるのです。してみるというよりは、行動せずに頭で解決しようとするんですよね。自分が馬鹿なことを知らないから、自分の頭の中でいろいろと、浅はかな理論をこねくり回すんですね。


けどね、何を読んでも、何を見ても僕の周りの状況は全く変わらなくて、ある日自分の解釈の仕方が間違っていたと、理解しなきゃいけない日が来るんです。


「あ〜、自分の見てた世界は、自分が自分で自分の頭の仲に自分に都合の良いように作った世界で、その中で何を考えても、何を夢見ても、結局は自己解決してしまうだけで、特に意味は無いんだな〜」


と。


だから、何か別のものと素直に関わって、もっといろんなことを知っていく必要があって、何か考えるのはそれからだなぁ〜と思ったのです。


で、こういう風に考えてから、いろんな人に話を聞いたり、いろんな人と関わったり、いろんな人に意見を言って反応をみたりと、とにかく自分や自分と仲良し以外の人や世界を知ろうという方向に意識が進んでいきました。


恐らく、ニートをしていて、毎日退屈で、都合の良いところばっかりを見ていて、確かに楽なのですが、それを続けていくことでたどり着くであろう、むっつりスケベの世界に本能的に限界を感じたんだと思います。


幸運にも若かったし、時間がありましたからね。


僕自身は優秀ではないのですが、僕の周りには優秀な人が沢山いたので、そういう人たちが何度か僕に言ってくれてたこともあったんです。


けど、いつも


「なんとかなるさ〜」


と、自分の浅はかで楽観的で、何の根拠も無い呪文を、自分自身にかけていたのです。


だけど、時間があったので、気が付かざるを得なかったのです。


だって周りの環境って何も変わらないですからね。一年もボーっとしてて、何もかわらなかったら流石に違和感が出てきますよ。笑





まぁ、何とかなるよ!


まぁ、今は不景気だから、そのうちなんとかなるでしょ!


一応、世間一般的に良しとされる学校に行ってたし、その学校は偏差値も高かったし、頑張りすぎただけ。今は休憩。それでも、今楽しいから、なんとかなるでしょ!


周りも就職難だし、そもそも、日本の全体の平均年収も下がってるし、自分だけじゃないし、どうにかなるでしょ・・・


今せっかく楽しいのに、世の中不景気って、嫌だな〜。けど、まぁどうにかなるでしょ・・・


まわりは何も変わらないけど、まぁもうすぐどうにかなるでしょ・・・


ほんとに、なんとかなるの・・・?






という風に。


けど、年食えば食うほど、自分の周りの世界が固まれば固まるほど、


「大丈夫〜なんとかなるよ♪」


というあま〜いトラップがたくさん用意されています。



なんか、今やばくね・・・?


と、現実を見つめなおそうと思えば、すぐに「だ〜いじょうぶ、大丈夫〜♪」と、そんな甘い言葉が、非現実へ連れて行ってくれるわけです。


そんな中で生きてたら、やっぱり自分の身の回りの凝り固まった、安心できる世界が心地良よくて仕方なくなってくるんですよ。


毎日どこか現実の隙間を探して、逃げに逃げ続けて。


それでも一応、何も考えずに、形だけ就活とか、テストとか、課題とか・・・。嫌々何かをやってて、常に何かに追われてて、そして休みになって


「あ〜解放された〜」


っていうのが沢山いますから。


で、もともと呪縛すらされていないのに、なぜだか勝手に解放された気になって、そのとき何やってるかというと、普段周りの世界を拒絶して、嫌々好きでもないことやってる反動で、余計自分の都合の良いものを見て、自分の都合の良い解釈をして、それで精神を安定させるんです。その繰り返し・・・。


それが続いた先に、何か明るいものが想像できますかね?


僕は想像できませんでした。


上に上に、天井をやぶって地上に出るというよりは、穴を掘って掘ってもぐり続けているような感じで、それもそれで限界は無いのでしょうけど、なんだか方向が逆な気がしたんです。


地上に出るということは、自分の周りが急に明るくなって広くなるということなので、今まで地下にいたのなら、当然問題も沢山出てきますし、不安もありますし、なによりまぶしいから、もういっかいもぐりたくなるものです。


けど、そうやって地上に出て、未知のものに触れてみなければ、ただただもぐり続けても、自分の世界はただ、どんどん暗く狭くなってくるのです。


人は未知のものに触れるとどうしても拒絶したくなるんだと思います。だって、受け入れるのはストレスですからね。


けど、


「刺激が欲しくて・・・」


という、”刺激”っていうのは適度なストレスだと僕は思います。



だから、今は適度なストレスを感じて、未知のものに触れてみようと、常に自分の知らないことを理解しようと目を凝らしています。


まぶしいから、見えないこともしばしばあるのですが、そういう時もじっと目を凝らして見ようとしています。そうしていると、目がだんだん慣れてきて、何を見ているのか理解できるようになってきます。


別に、理解というのは「受け入れる」ということでは無いので、理解したうえで自分に合わなければ、それはそれで、次の自分の選択肢から外せば良いんです。


選択肢から外すというのは、選択肢があることが前提ですので、拒絶では無いですからね。拒絶というのは、最初から選択肢に存在していないということで、そもそも理解すらしていないということですから。


今や一見とても都合の良いものが、自分の周りに沢山転がっています。その都合の良いものだけを拾っていけば、手がいっぱいになるのです。


しかも、密度なんて何もない、綿菓子(わたがし)みたいな表面だけが大きいものをたくさん拾ってね。


けど、そこで手がいっぱいになってしまったら次のものが拾えなくて、ずっと新しいものが無く、手がいっぱいなはずなのに、なんだか満たされない、なんだか不満だという状況になると思います。


そういう時は、思い切って何個か捨てればいいんです。所詮わたがしですから、捨ててもそんなに大きなものではないんですよ。そうしたら、新しいものが拾えますから。


別に、今の世界がもう、絶対素晴らしいというのなら、そこにずっといればいいんです。


けど、最終的にそこで凝り固まったら、ほんとに時代が進めば進むほど、ただ取り残されていくだけです。


努力して前進しようとしている人に対して


「意識高いって、なんかダサいよね〜。もっとクールに・・・」


と言いながら、ただ貧乏になっていくだけです。



貧乏が悪いわけではないですし、僕は別にお金は持ってなくてもいいと思います。


けど、発想が貧乏ってのは、お金がないよりも、もっともっと貧しいですよ。


そうなりたいのなら、ぜんぜん止めはしないですし、なれば良いんですが、そうなりたいですか?


僕はなりたくないです。


だから学生の時は、まわりがどんだけピーヒャラピーヒャラ パッパパラパと言ってても、努力はしたつもりですし、やっぱり進路については、死ぬほど頭使って考えましたからね。


世の中不景気だから、何社も受けて、最後には過労死するまで働かされるブラック企業に就職する。こんなのは嫌だ〜。


それなら、最初からそうならないように、ブラック企業の過酷労働以上に努力すりゃいいんですよ。


どうせ過労死するなら、自分のために過労死したらいいんですよ。ちなみにやったらわかると思いますけどね、人間意外と丈夫で、たぶん死なないですから。笑


とりあえず、


ゆるキャラブームであっても、周りが面白くもないテレビばっかり見て、血液型占いばっかやって、「あんなこといいな〜できたらいいな〜」とネコ型ロボットの登場を心待ちにしているような現実逃避集団だったとしても・・・


むっつりスケベで年を食う前に、いろいろと考えたり、たまには今属している集団の外に一歩出てみて、外から眺めてみたり、そんなことを試してみるといいと思います。



ちょっとずつでも良いので。


そしたら、


「就職活動だ!就職情報サイトに早く登録しなければ!」


「ポートフォリオ作らなきゃ!」


「就職支援室へ行って、教諭にゴマ擦って、面接練習しなきゃ!」


なんて発想になるはずがないですから。笑。



そうなるってことは、ただ現実の認識不足ですよ。な〜んにも考えないで、ただただ”ゆる〜い架空の世界”で生きてるだけです。


まぁ、そんな感じでちょっと辛口ですが、


「なんか、今の時代ってやりにくいよね・・・」


と、少しでも違和感を持ってるなら、その違和感を信じて未知のことにチャレンジしてみるのも良いと思いますよ。


違和感があっても、最初なにをやったらいいか分からない・・・


だったら、今目の前にあるものを、一つだけでもいいから尋常じゃないクオリティでこなせばいいんですよ。


やらないで悩んでる時間があれば出来ますからね。


とりあえず、考えても仕方がない、一般的に盲信されている行動しか取れないのなら、考える前に何かやってみてください。


それでは。長文お疲れ様です。


お休みなさい。


※余談ですが、Immanuel Kantというドイツの哲学者の言葉で


”私自身は生まれつき研究者である。無学の愚民を軽蔑した時代もあった。しかしルソーが私の謬りを正しくしてくれた。私は人間を尊敬することを学ぶようになった。”


とあります。


これは、高校時代に僕がとても影響を受けた考え方です。


これを今の建築業界に置き換えて考えてみてください。僕のTweetや、記事のほとんどが、このカントの言葉に沿ったものだと、思います。なので、このカントの言葉がちょっとだけ理解できれば、僕のTweetやブログ記事が、ほんの少し読みやすくなるかもしれません。


posted by makku at 22:21| Comment(0) | 学科の生活 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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