建築学科攻略サイト

凡人が建築学科をスムーズにクリアしようと試みるために作ったサイトです。「攻略したぞ!」という過去形ではなく、「攻略できるかな?」というニュアンスです。
正確には、建築学科(を)攻略(したい人の)サイトです。
自分が建築学科出身で、今いろいろと仕事をしている中で、実際の現場を見て思ったこと、感じたことなどを、建築学生時代の経験に絡めて書いております。
よろしくお願いいたします。
 

カテゴリー:辛口エッセイ


2017年09月18日

質問の技術と会心の一撃

こんにちは。



今回の記事は二本立てです。もちろん、僕の時短のための二本立てです。



内容ですが、全体的に他人の事を考える、他人に配慮して生きることがどれだけ自分にとってプラスになるかを書きたいのですが、こっちの「質問の技術と会心の一撃」という記事では具体例を出して、もう一つの「他人思いが結局自分を救ってくれる」という記事では、もう少し精神論というか、抽象的なことを書いています。



以前何度か記事にも書いたことがあるのですが、質問の仕方がうまくなるだけで、先人が長い年月かけて培った技術やノウハウを一瞬で盗むことが出来ますので、質問の能力というのは出来るだけ磨いた方が良いかと思います。



何かに行き詰った時、自分に分からないことがあったとき、他人に聞けば最も早くその疑問解決にたどり着く可能性が高いと思うのですが、質問する能力、質問の仕方によっては全く先に進めないって事が山ほどあります。



僕もブログやTwitterをやっていますので、昔と比べれば最近よく質問を頂くことが多いのですが、その「質問の内容」以前に「質問の能力」が低すぎる・・・



だから、ちょっと質問の内容以前に質問をする時にどう配慮したほうが良いかを記事で書いとこうと思います。

※こういう記事で「僕(=まっく)が最も快適になる質問をするために質問者であるお前らが配慮しろ」といいたいわけではないからね。僕は質問きたら答えますけど、来ないなら来ないで困らないから。
ただこの記事では、質問が適切に出来るだけで、ほんとに色んなことから救われるっていうのを知って欲しい。




どう表現したらいいのかな・・・



下手な人の質問というのは、それこそGoogle検索かける感じで人間に質問してるという感覚でしょうか。



Google検索で得られる回答と、人間から得られる回答の違いって分かりますか??



僕の結論から書いておきますが



Google検索で得られる回答は、「キュレーション前(選びぬかれる前、並び替えられる前)の回答」です。つまり、ありとあらゆる回答を与えられて、その中から“自分=質問者が”吟味して、最適だと思う回答を導き出さなければならない。これは、考える材料の意味が理解できる程度の効果だと思います。



人間から得られる回答というのは、「キュレーション後(選びぬかれたもの、並び替えられ、質問者用にカスタマイズされた後)の回答」です。つまり、“相手=回答者が”質問者の状況、環境、ステージ、ボキャブラリーに合わせて最適だと思う回答を導き出さなければならない。これは、簡単に言うと会心の一撃並みの効果があります。



言葉で書くと分かりにくいので、図で説明しましょうか。
(前に「盲目的な努力をしないための努力」という記事で使った画像です。僕が物事を理解しようとする時によく使う歯車の図です。便利なんですよ個人的に・・・笑)

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あるAさんが、誰かに質問しようとしたとします。あるAさんには、図のように沢山の背景と知識があります。

7-2.jpg

けど、「知識Dを動かすためにどうすればいいですか?」という質問をAさんからもらった質問者は、Aさんの事を全く知らないので、この図のように見えてしまいます。

これだと、回答者が答えるよりも質問者がGoogleで検索したほうが早い。

8.jpg

けど、もしAさんの情報が質問者にもっと伝わっていれば・・・

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回答者は会心の一撃のような回答を導くことができます。


※図を文章で説明するとどうも複雑なニュアンスが伝わりにくいので、音声と動画でも詳しく説明しています。






歯車そのものが、Googleに質問(検索)すれば得られる回答。で、歯車と歯車の間が、適切な人間に適切に質問すれば得られる回答です。



図のようにGoogleのようなシステマティックな回答は、例えば単語の意味(広辞苑的な意味)とか、英単語の和訳(前後の文脈を考慮しない和訳)とか・・・



人間による「会心の一撃」的な回答は、例えば単語の意味(質問者が知りたいと思ってる単語の意味が、質問者とどう関係していて、そこから何が広がっていくかを見据えた単語の意味)とか英単語の和訳(前後の文脈を考慮した単語の意味、さらに、それに変わるもっと最適な表現は無いのかなどなどを考慮した和訳と、適切であれば新しい英単語)とか。



で、この図を見てピンと来ればなかなか質問慣れしてるというか、良い質問を心がけてる思うのですが、分かります?



歯車単体は、沢山集めないと意味が無いんです。けど、歯車と歯車の間って、1個集めると全部回るんです。



つまり、Googleは今のところ、検索をかけてる人間が



「どれだけの歯車を持っていて、その歯車がどこに配置されていて、どれだけ噛み合っているのか?」



という情報を持っていない前提で回答をするシステムですので、結局自分で歯車と歯車をつなげなければいけない。
※ちなみに、僕は学校教育もGoogleと同じだと思っていますけどね。



けど、適切な人間の回答というのは、



「どれだけの歯車を持っていて、その歯車がどこに配置されていて、どれだけ噛み合っているのか?」



という情報を踏まえて回答してくれる場合が多い(質問・回答の関係を深く理解している人に質問する場合に限る)。



つまり、質問者の質問を深く観察し、良く聞き、質問者を理解することで、回答者は質問者のどの歯車を回せば全てが回るのかをずっと考えているんです。



こういう背景があって、質問さえしっかりすれば、適切な人の適切な回答というのは、会心の一撃になるのです。



今ってSNSが発達しているので、SNSで普通関わることの出来ない人と関われますし、YoutubeやTEDで、一流の人間のスピーチ・思考を学べます。さらに、Google検索も非常に優秀ですので、本気出せば学費0で学校に行くよりはるかに良いことを学べます。



しかし、これだけ素晴らしい時代に、わけのわからない(それ悩む!?みたいな事)ことで悩んでいたり、どれだけGoogleで検索しても人に聞いてももやもやしてて、何も成果が出ないし何も解決しないって人は、質問の仕方が下手なんです。



どういうことかというと、全ての質問をGoogle形式でやってるんですよ。



Googleで検索する時はGoogleで単語や専門用語を入力する。で、意味だけ見て深追いしない。深追いしないから理解できず、人に聞くことになってもGoogleで検索するのと同じ聞き方しか出来ないから、微妙な答えが返ってくるか、「Googleで検索してください」と言われるかのどちらか。



僕のブログやTwitterでも、最近質問が増えてきてこの感覚がものすごくあります。



この前Twitterでも



「質問増えたはいいけど、質問したらしっぱなしで、何の反応もない人が多くて、そういう人とはあまり関わりたくないから、今後質問もらっても一切メール返さないからね」



とツイートしたのですが、多分こういうのにネガティブに反応しちゃう頭の悪い系の人達は



「なにこいつ、お礼とか言って欲しいの?」



とか



「さびしがりなの?」



とか思っちゃったんだろうけど、そうじゃなくて、



「人間に質問して、お礼も反応無い=Google検索と同じ質問方法で質問してきてる可能性が高い。」



からです。(というか、質問文がもうすでにそうだからね・・・)



これだとお互い時間の無駄なんです。歯車を欲しがってる人は僕に聞くよりGoogleで検索するほうが早いですから。



結局僕のところに来る質問も質問によっては吟味に吟味を重ね、ものすごく考えた上で



「Googleで検索してください」



と返すことがありますからね。



それは手を抜いているのではなく、どうやって考えても質問の意味が分からない
(質問の意味が分からない=相手の歯車の状態・数・間・位置などが分からない)
から、最も誠実な答えが「Googleで検索してください」になることがあるんです。



それだと、最初からGoogleで検索したほうが圧倒的に効率が良いでしょ?



友達や元々良く知ってる人、家族などは別ですよ。だってよく知ってるから。性格も語彙力も歯車の数も位置も大体分かってるからね。



僕は嫁とほとんど会話しないんですけど、たまに嫁から何の前触れも無く「OOってどうしたら良いと思う??」みたいな雑な相談受けたりするんですよ。



で、僕が答えると



「ものすごくシンプルだけど、自分で考えててもずっと辿りつかない答えだと思う」



って関心してもらうことがあるんですよ。(ノロケですみません)



それは、僕が嫁と付き合い長いですから、嫁の性格も語彙力も歯車の数も位置も大体分かってるからなんです。



だから、嫁からの一言二言の雑な質問でも、僕は



「どの歯車が足りないのか、簡単な回答でこの人の歯車を最も沢山回すことの出来る回答はどれか?」



と考えることが出来ますので、最終的に会心の一撃の回答が出せます。



けど、ブログとかで全く知らない人から嫁とか友達と同じテンションで質問されても同じパフォーマンスは出せないよ。笑



もうね、あるあるのパターンなんですけど



「こんにちは(自己紹介無しで)、早速ですが」



「どうも、学生の者です。」




みたいな入り方の質問ね。



別にいいんだけどさ、誰だよ・・・って思いません?



まぁ僕の書き方が悪いのかもしれませんし、質問受付のところに「個人情報など僕に知られたくなかったら伏せてもらっても大丈夫です」と書いてるので、質問下手な人とか質問慣れしてない人とかってこういう感じになるんだと思うんだけど、ちゃんとしてる人の質問には聞いてもないのに必ず「職場名(大学名)・名前・学科・活動(もしくは、これらにかわる材料)」が書いてありますからね。



個人情報よこせってわけじゃないよ。欲しいとも思わないし。
(これいつもおもうんだけど、知って僕が何の得するの?笑)



僕みたいにブログ記事に自分の考えとか書いてれば仕事内容や大学名・名前を明記しなくても大学名・学科・活動を知るより情報量がある場合はそっちのほうが回答しやすいからね。



けど、そういう活動もしてなくて、いきなり



「やぁ、どうも、僕(私)です」



みたいなテンションで来られましても・・・



とりあえず、質問をする場合、「どういう回答を求めて質問するか?」によって、質問方法を変えるべきだということくらい分かりません??



で、そういう当たり前の他人に対する配慮が面倒くさいなら、他人頼ろうとせずにまずGoogleで調べて自分で考えて、一人で考えてさぞかし立派な答えを出して誰とも関わらずに幸せに生きれば良いんですよ。



皮肉で言ってるわけではないですよ。



僕も攻略サイト以外に学生の時に作った以来全く更新してないしょうもないくっだらないHP(何故かこっちのほうがアクセス多い。笑)があって、そこから未だに広告収入はいってきますし、FXや株もやってますので、誰とも接触せずに生きれる事を知ってますから。



難しいことではなく、やろうと思えば出来るんですよ。だから、そうすれば良い。



けど、それも出来ないのに自分都合で他人の力借りてやろうなんて、それはアホ極まりない発想ですよ。



それこそカイジの利根川が言ってるように



「世間はお前らのお母さんでは無い」



のですから。



まぁこれ以上これ関連のこと書いていたら終始愚痴になりそうなので最初の趣旨に戻りますが、とりあえず雑な質問してくる人が多すぎ。
※僕に限らず、多分他の人にもそうしてるんだと思います。だからこそ、疑問が全く解決しないんだと思います。それはもう、「何の質問するか?」って次元じゃないと思いますよ。



で、こういう人にも極力誠実に答えたいからいつも消化不良の回答を送るんだけど、やっぱり誠実に答えると全て「Googleで検索してください」になるんです。



だから、どうすればそういう人の質問力が上がるのかを考えた結果、「質問」にフォーカスして僕の意見を書いてみました。



ほんとにね、質問関連で何個か記事書いてるけど、質問力って大事なんですよ。僕も昔から質問ばかりして、人に色んな事を教えてもらって、今でも色んな人に色んな話聞いて、学ぶこと沢山ありますから。



けど、色んな人たちから来る質問を見てると、下手すぎる。



これじゃあ、誰に聞いても誰も適切な回答をしてくれない。



だから、質問したいこと云々の前に、もっと周りに配慮した質問力を身につけてはいかがでしょうか?



という意味をこめて、今回はこの記事を書いてみました。



あと、最後にもう一回書いときます。



こういう記事で「僕(=まっく)が最も快適になる質問をするために質問者であるお前らが配慮しろ」といいたいわけではないからね。僕は質問きたら答えますけど、来ないなら来ないで僕は何も困らないから。
ただこの記事では、質問が適切に出来るだけで、ほんとに色んなことから救われるっていうのを知って欲しい。



※今回は細かいニュアンスの説明が多いので、音声+動画の記事だけにしたかったのですが、僕の場合、文章の記事と音声の記事で、僕は音声や動画の記事のほうが圧倒的に良いことを言ってると思ってても、音声や動画にするとアクセスが激減しますので、文章でも同じこと書いています。



けど、個人的にはやっぱり音声+動画解説のほうがオススメです。



以前書いた質問に関する記事はこちらにまとめておきます。



■ 質問力がもたらす効果



■ 盲目的努力をしないための努力



■ 「他人思いが結局自分を救ってくれる」






posted by makku at 22:42| Comment(0) | 辛口エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

他人思いが結局自分を救ってくれる

こんにちは。



今回の記事は二本立てです。もちろん、僕の時短のための二本立てです。



内容ですが、全体的に他人の事を考える、他人に配慮して生きることがどれだけ自分にとってプラスになるかを書きたいのですが、こっちの「他人思いが結局自分を救ってくれる」という記事では精神論というか、抽象的なことを書いていて、もう一つの「質問の技術と会心の一撃」という記事では、具体例を書いています。



これら二つの記事では、淡白な世代(僕もゆとりさとり世代なので、淡白なほうだと思いますが)が一般的な現代ですが、他人に配慮することで、いかに自分が得するかということを書いていこうと思います。

※導入から勘違いされると困るので、細かいニュアンスを付け加えておきます。他人を利用して自分が得しろといいたいわけでは無いです。なにをやるにしても他人に配慮したほうがスムーズだと言いたい。媚を売れというわけでも、おべっか使えというわけでもない。自分を捨てて世の中に乗れというわけでもない。「遠慮」しなくて良いけど「配慮」しろという意味。




では早速。



これはこの前、さわりだけTwitterで書いたのですが・・・



多種多様な人間がいろいろ集まってみたとしても、結局似てない人たちは反発するので、最終的に似たもの同士の集まりに落ち着くんだろうなぁと最近思います。



で、それ前提で考えると、「他人思い」な人は「他人思い」な人同士集まり、「自分思い」な人は「自分思い」な人同士で集まります。



この結果、どういう現象が起こるかというと、



「自分思い」の集団は、全員「自分が一番快適になること」しか考えてない「我が我が・・・」の集団ですので、結局快適になろうとしても快適になれないのです。



逆に「他人思い」の集団は、自分以外全員が「相手が一番快適になること」を考えていますので、結局周りが自分のことを考えてくれるから、結果快適ですごく楽になるんです。



僕は、昨今の労働状況改善とか、若い世代の人間関係とか見ていると、明確にこの二つの種類の人間に分かれた集団を見ている気がするのです。



分かりやすく、社会生活=会社の状況として例を挙げてみましょうか。



一方の会社では、経営者は自分の会社が苦しい、自分の経営が難しい、自分の生活を守りたい、自分が一番。だから、従業員に給料を払いたくない。だから「給料カット」「残業代カット」「人件費削減」「人員削減」と言ってる。



で、似た者同士が集まった集団ができますので、そこの社員は、仕事したくない。楽な(これ=楽というのがまた抽象的なんで厄介なのですが・・・)生活したい。残業したくない。金は欲しい。だからずっと「給料よこせ!」「残業代払え!「労働時間減らせ!」ってことばかり言っている。



不謹慎かもしれませんが、僕は残業代未払いとか労働環境改善みたいなデモとか抗議活動とか見ているとひいちゃうんです。



そんなことする時間とエネルギーがあったらある程度の所得くらい自力で増やせるでしょ・・・あと、そんな疲れているなら抗議活動なんかせずに休めよ・・・と。



だいたい、そんな気に入らないなら辞めろよ・・・と。

※今の制度上、会社が従業員をクビにすると問題になるっていうわけのわからない制度がありますので、社員側の視点から「嫌なら辞めろよ」と書いています。



けど、そういう会社の従業員に限って辞めずにずっと「家族が!」とか「生活が!」とか「子供が!」とか言っているでしょ?



会社がお前に



「うちで働いて、家族作って子供作って贅沢に生活してくれ!」



と頼んだの?



計算すれば明らかに困窮するって事前に分かる雇用条件をのんで自分で「御社で働きたいです!なんでもやります!部活(サークル)やってたんで根性あります!てへぺろ」とか作り笑顔で言って入社したわけじゃん・・・。



だからやっぱり、所詮は自分思いの集団なんですよ。



「あれ、思ってたのと違う・・・」



そりゃ個人の想像通りに世の中動いてるわけでは無いんですから・・・

※(独裁国家、独裁集団は除く)



ということで、自分の事しか考えてない自分思いの人ばかり集まった集団で快適に生きれるわけなくないですか?



別にブラック企業(世間一般で言う)の環境を推奨しているわけでもなく、当たり前の話じゃないですか??



じゃあ逆はどうでしょうか。



相手の事を考える人の集まりにいると、自分は他人のことを最優先して動きますし、他人は自分のことを最優先してくれますので、あまり自分にとって不都合って起きないですよね。



もちろん、この関係には「信用」っていうものすごくハードルの高い壁が付きまといますが、一度越えてしまえば本当に快適になるんですよ。(その代わり、崩れるのも一瞬ですが)



で、もともと放棄してるというか、分かって避けてるのか、面倒くさがってるのか分かりませんが、このハードルを越えることなく先に行こうとしすぎてる人が多いような気がします。



僕はこういうのを自分の事ばかり考えて他人から何かを奪い取る行為として、「カツアゲ」って定義してるんですけど、何でもカツアゲしようとすると良いこと一つもないですよ。




多分本人達は意識ないんでしょうけど、どう見てもカツアゲじゃないですか?金を出したがらない企業から能力が無いことを棚に上げて、無理やり給料もらおうっていうやり方って。



僕も昔カツアゲしたことがある(当時処分は受けて、お金も返しています。終わったから良いというわけではもちろんありませんが、感覚は分かりますので例に挙げさせてください。)ので、感覚が分かるのですが、リスクしか無くて効率悪いよほんとに。



地道に信用を勝ち取って、仕事したほうがよっぽど楽です。一度勝ち取れば長いこと仕事もらえますし、相手にも喜んでもらえますので。



人は勉強すればするほど、人に対して配慮が深くなっていくものだと僕は思っているのですが、いかんせん、僕が大学の頃からもそうですし、今でもそうですが、自分の事ばかり考えてる人が多すぎる。で、そのほとんどは苦しそう(ストレスにまみれてるというか、あまり満足できないというか・・・)に見えます。



けど、普通に考えたらそうじゃないですか?



今回は違う方向から同じことを書きたかったので、この記事と関連して「質問の技術と会心の一撃」という質問に関する記事を書いてるのですが、自分本位で質問(コミュニケーション)しても、相手はうまく答えてくれないですから。



Googleに聞いて分からないことを、人に聞けば解決できると期待して人に聞いてみるんだけど、人に聞くときもGoogleに聞くのと同じような聞き方してるから、相手はうまく答えてくれない。そしたら、「あいつの説明は分かりにくい」とか「あいつは何も教えてくれない」とか、そういう被害妄想が始まる。



原因は「全ての行動が自分本位で、それが返ってきただけ」って明確に分かっていながら、ずっと自分本位で世の中に接してしまうので、結局何も得られない(与えてもらえない)。



だから、最終的に何もうまくいかないし、ストレスと不満ばかりたまってしまう。



そういう場合、ちょっとずつで良いので、周りとか他人に配慮してみてはいかがでしょうか?



きっと配慮してくれる人たちが回りに集まってくる(もしくは、配慮の無い人が離れていく)と思いますよ。



会社が給料くれないけど、辞めたくないのなら、「働きたくないけど給料よこせー!」みたいなカツアゲ活動せずに、もう少し真面目に会社の利益を考えて行動すれば良いんじゃないですか?



大きな会社だとどうしても評価軸が分かりませんので、なんともいえませんが、社員の声が本体に届かない場合は、それなら一回だけ、自分の事を評価する身近な上司の言うことを徹底的に聞いてみたら良いんじゃないですか?



それで報われずに「社蓄」とか言われても別に良いんじゃないですか?どうしても無理ならやめれば良いだけだし。



で、辞めてもその精神は必ず評価される場所があると思いますので、それに出会えば良いだけなんですよ。



自分で仕事とるってなると、この精神はものすごく役に立ちますからね。



というか、デザインなんて大きなくくりで「配慮」で出来てる学問じゃないですか?




結局観察とその観察から生まれる配慮の具現化がデザインであって、創作であって、自己完結的な創作で成功してる人って見たこと無くないですか?



見たことないというか、創って世に問う意味が分からない。。。



自己完結のデザインを作りたいと思ってる人が固まったら、それこそねずみ講システムでしか成り立たないんじゃないですか?



僕は学生時代から「現実世界では多くのアトリエ系設計事務所は宗教っぽくてねずみ講システムを採用してるじゃん」って思ってるんですけど、違いますかね?



良く分からないデザインの授業を展開する大学教授一人の給料を賄うために新しく入った多くの学生が授業料を払う。良く分からないもの作りたがってる一人の設計事務所代表が飯を食うために、毎年新しい多くの学生がただ働きをする。その結果、自己完結型の大学教授と自己完結型の設計事務所代表がちょっとずつ増えて、その下にいるカモがまた増える。自己完結なので、外部からお金が入らず、下からのお金(小銭だけど)は全て上に流れていってカモは一切儲からないっていうシステムに見えるのですが。。。

※逆に、僕(まっく)は怪しい怪しいって言われてるけど、僕がやってることがシステム上どう「怪しい」のか筋の通る理屈でだれか説明してくれ。まじで。笑



デザインや創作の勉強してる人ほど、観察と配慮に溢れている=他人思いだと思っているのですが、そうでは無いんですかね?



なんとなく胡散臭い成功哲学とかにかいてありそうな



「まず人に施す。そしたら自分に返ってくる」



みたいなのは、意外と正しいと思っていますよ。



ニュアンスがかなり難しいのですが、得するために自分が損しろとか、そういうゼロサムの話しではなくて、何事も他人に配慮したほうがスムーズだと思います。



今は特に意識しているわけでは無いので、そうやって生きてるつもりは全くないですが、自分がやってうまくいってる仕事や結果を後から見返せば、何故か人に配慮して何かをしてる時だけうまくいってるように思います。



今回はもっぱら精神論だけをつらつら書いただけの記事になりましたが、真面目に何かを知りたいとか、自分の人生を快適にしたいとか、疑問を解決したいとか、ストレスをなくしたいとか、


そう思ったときこそ、他人のことを考えて行動してみるといろいろと見えてくると思います。




それでは!短いけど!



■ 「質問の技術と会心の一撃」







posted by makku at 22:41| Comment(0) | 辛口エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年07月28日

建築学科特有の、あの超しょうもない思考について


建築学生たるもの、やっぱり建築学生である以上、建築のアイデアコンペに出して、一定の評価を得たいと思うのではないでしょうか。



そんな中、



「コンペは賞を狙うものではない」

「自分の納得する作品ができるかどうか?が重要だ」

「狙って時代に媚びる作品は、評価されていても俺(私)は認めない!」




みたいな意見を、この時代になっても”未だに”見かけます。



僕はブログやTwitterにも何度も書いていますし、昔から一貫して



「なら、わざわざ人が出した課題に沿って作品を作る必要もないし、コンペに出す必要もないじゃないですか。」



と、思っています。



つまり僕は



「課題に沿って作品を作った以上、良い評価を得るべきだし、コンペに出した以上、絶対に受賞するべきだし、賞を狙いにいくべきだ」



と、考えています。



仮に、



「コンペは賞を狙うものではない」

「自分の納得する作品ができるかどうか?が重要だ」

「狙って時代に媚びる作品は、評価されていても俺(私)は認めない!」




が、本心なら、だれかに課題出題されなくても、自分の「納得」を得るために自主的に作品作るでしょ?



けど、そういう孤独な創作は一切しないで、中途半端にコンペにチャレンジして、案の定落選して、挙句の果てには



「受賞することが重要ではない」



、自分が評価されないことに対して、あれやこれやと、言い訳をする。



別にいいけどね、だれが何の得をする思想だよそれ・・・。



何かと何かを比べるステージに自分の思想、作品をぶつけると、いやでも順位が付くのです。そのステージに出した以上、出した作品は



受賞するか、受賞しないか



の、どちらかの結果を残すんです。



”必ず”ね。



その二択のどちらが良いかって、そりゃ賞を取らないよりは取ったほうが良いじゃないですか。



そんなのは小学生でもわかることだと思います。



けど、なかなかそれが理解できない人が多い。



というか、理解していても変な哲学みたいなこと言って言い訳する人が多い。



「コンペに出したら、受賞しないより受賞したほうが良い。」

「仕事したなら、報酬をもらわないより報酬をもらった方が良い」



こんな小学生でもわかる単純なことを、



「作品は評価されることが全てでは無い云々かんぬん・・・」

「仕事の成果はお金では無く美しさで云々かんぬん・・・」



と、



すーーーーーーーーーーごい難しい言葉と理屈で説明してくるじゃないですか。



自分の努力が足りないことに、わけの分からない難しい言葉使って哲学的に言い訳する大人や学生に、何の知性も感じられない。



なんでそんなに難しく考えるの?面倒くせぇなぁ・・・



と、思うのです。



自分が自信もって提出した図面や模型が、箸にも棒にもかからないのが格好悪いとか思ってるんですかね??



自分が提出した作品や仕事が、評価されなければ、言い訳せずにまず手を動かして、何度も何度も見直して、改善していくのが当たり前じゃないですか??



それが、世間や時代に媚びへつらう行為なんですかね??



世間と接点を持つための適切な努力だと、僕は思っているのですが・・・。



僕もそうですし、僕の知り合い、友人も大体そうなんですけど、自信持って、最高の状態に仕上げて、普通に落選しますからね。



で、その度、誰にも何にも評価されなかった図面をまじまじと見ながら、



どこが悪かったのか?

何で人の心を動かすことが出来なかったのか?

提出した時、なんでこの作品が良いと思ったのか?

改善するとしたら、どこを改善したらいいのか?




と、ひたすら考えて、実際に訂正してみたり、人に見せて聞いてみたり、本やネットを見てみたりするわけです。



そして、その訂正と改善と観察を繰り返し、新たに改良を加えた自分の作品を出して、また落選して、また出して、落選して・・・・



そういうことを繰り返して、ようやく何か見えてきて、最終的に2~3個出せば、大体1個は通るようになるんです。



「俺(私)は、評価されなくて良い、ただ自分の好きな作品を作り続けるんだ!」



それはそれでいいんだけど、大体そういうこと言っている人って他人に自分の作品や本音をぶつけて、そのリアルな評価と向き合ったことが無いんですよ。



僕からしたら、そんな巨匠みたいな事は、コンペでも仕事でも、何本か取ってきてから言えよ



と思います。



悲観的になりすぎたあまり、



「俺(私)の作りたい作品は、時代の逆を行ってる!」



とか



「産業アートはもう飽きたぜ!」



とか・・・




そういう残念な哲学が深まれば深まるほど、社会と接点のない“自称アーティスト”になっていくように思います。
※僕の同期でも沢山いますからね、そういう思考になって、色々難しいこと言いながらプー太郎してる人。



勿論、そこから大ブレイクする人もいますが、そんなのは稀ですから。そこまで自分に才能がある自信があるなら、そうすれば良いと思いますけど。



とりあえず、変な言い訳哲学が深まると、行動もしない、結果も出さない、自分の周りから人が離れていく、という、思考スクルージ状態になるので、あまりおすすめしませんよ。
※スクルージ=小説、クリスマスキャロルに登場する、やたら気難しく面倒くさい爺さん



普通の頭使って、シンプルに考えて下さい。



金が無かったら生きられないor周りに人が居なかったら生きることが出来ない。

こういう状態で、自分だけが納得できる、自分だけのアート作品を作っていても、今の時代じゃ生きられないですから。

で、生きられなければ自分の好きな作品を作ることも出来ない。



当たり前でしょ?



じゃあちょっと強引なやり方で、自分だけの創作が評価される、自分に都合のいい世界を作る場合でも、結局自分をブランディングして人を集めなきゃいけないわけですから、やっぱり人と関わって、人からの評価をまじまじと受けなければいけない。



けど、そういう努力すらせず、難しい言い訳ばかり考える・・・。



どうしようもないよほんとに。



結局、どこかで社会と接点を持たなきゃいけないわけですから、しょうもないエゴにまみれた哲学の壁に囲まれて生活するより、社会と接点持った方が良いじゃないですか。



もう少しシンプルに、当たり前に考えたら良いと思います。



時に、何かに思考をめぐらせて、何か途方もないことを熟考することもほんとに大切なんですけど、そればかりやっていると目の前にある課題が何も片付きませんからね。



とにかく、そういう難しい言い訳をしていても何の意味も無いので、さっさとやめましょう。



最後に、



「コンペに通ること、誰からでもいいから仕事を取ってくること」は、自分が生み出した作品が、素晴らしいと認められた“お墨付き”をいただく行為に見えるわけですが、そうではありません。



自分が生み出したものによって、自分の世界と、自分のちょっと外の世界が結ばれる瞬間なんです。



こう考える(というか、こういう現実が分かる)と、



そりゃどんどんコンペに挑戦して、沢山受賞する(接点を持たす)べきだね!



と、思いません??



この接点が、自分の可能性と行動、思考をどれだけ広げてくれるかは、体験しないと分からないと思いますので、是非言い訳せずに体験してみてください。



※この内容は、過去に音声でも喋ったことがあったので、その記事のリンクも載せておきます。



記事はこちら

■ 個人的な意見をひたすら話してみた。

※この記事の真ん中くらいの”「コンペは賞を取ることが目的です。」の真意”というタイトルの音声です。




それでは!












posted by makku at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 辛口エッセイ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする


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